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イースター島に1,000体ほど存在しているモアイ像。
このモアイ像がいつ作られ、どうやって作られたのかについて、現在までに解明されていることをまとめてみました。
モアイ像はなぜ作られたのか?
モアイ像は墓碑(ぼひ)としてつくられたという説
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現在までの調査では、モアイ像は墓碑(ぼひ)として作られたという説が最も有力な説と言われております。
というのも、太古の人たちは、権力者を埋葬する際、墓碑の形状・大きさ・壮大さで、権力の大きさを表してきたと言われており、たとえば、エジプトのツタンカーメンとか、スフィンクスが有名ですよね。
この発想は、日本の古墳にも同じことが表れており、埋葬される人の権力により、古墳の規模はどんどん大きな手の込んだものになっております。
イースター島でもエジプトや日本と同じような事が行われてきたと考えられており。
モアイ像は墓碑として作られていた、そしてその大きさは権力を表しているのではないかと考えられております。
ちなみに、モアイ像の土台となる部分から多くの人骨が発掘されており、これは支配者の埋葬時に生贄になった人たちの亡骸ではないかと考えられております。
モアイ像は祭祀(さいし)としてつくられたという説
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モアイ像は祭祀(さいし)のために作られたのではないという考えも、有力な説の1つです。
※祭祀は神を祀るもの
古代イースター島の農耕民族にとって、作物の豊作は生きていくうえで重要なことであり、収穫に大きな影響を与える自然災害は最大の脅威でした。
そこで人々は、作物の収穫を迎える時期に、山や海に対して拝み祈祷したと言われております。
そして、この祭りごとのためにモアイ像を作り、神への最大の敬意表したと言われております。
モアイ像は守護像として作られたという説
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モアイ像は、部落を守る守護像として作られていたという説もあります。
もともと、モアイ像には目が入っており、目の入ったモアイ像には霊力(マナ)が宿ると信じられてきました。
霊力を宿すモアイ像が、その超自然的な力により部落を守るとされていたからです。
この説を裏付けるものとして、多くのモアイ像が海側でなく内陸側(部落側)を向き、部落を見守るように設置されていることも上げられます。
モアイ像はいつ作られたのか?
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最初にモアイ像が建設されたのは5~7世紀頃で、それから17世紀頃まで作られ続けてきたと考えられております。
モアイ像に付着している花粉を調べた際、5世頃のヤシの木の花粉が見つかったことから解明したことです。
モアイ像はどうやって作られたのか?
イースター島には加工しやすい凝灰岩が豊富にあり、これを削り出し、20人以上の石工が1年以上の年月をかけてモアイ像を作ったと言われております。
モアイ像はどうやって運んだのか?
大量の丸太をコマにして、モアイ像をロープで引っ張ったという説が有力です。
ローラーがついているコンベヤーと理論上は一緒なので、これであれば運べそうですよね。
モアイ像が歩いて移動したという説も
ところがモアイ像が歩いたという説もあり…
実際にこんな実験も行われたようです▼▼▼
思いっきり人力でロープを使ってますが、、、
確かに歩いている風ですね(笑)
本物のモアイ像が南三陸町で見られる?
以上、モアイ像についていつ作られたのか、どうやって作られたのかということについてまとめましたが、実は宮城県の南三陸町で本物のモアイ像(イースター島から贈呈)を見ることが可能です。
このモアイ像は南三陸町にとって希望や復興のシンボルであり、またいつまでも町を見守ってくれる守護像として愛されております。
東北地方に遊びに行かれる際は、ぜひモアイ像を訪れてみてくださいね!